Hk 1280

夢みる頃を過ぎても

学生時代に読んでいた本を久しぶりに読み返したくなり、開くと一枚の写真が床にひらりと落ちた。

日本海オロロンラインを海岸線に沿って、ひたすら北上した、北海道の旅。

終わりのみえない旅の始まりを告げるかのような、視界を遮るものがない、果てしなく続く一本の道。

車窓の左手に広がる海を情景に走り続けた。

その写真を目にした瞬間、不思議なほど鮮明に蘇ったその当時の記憶。

飽きるほど繰り返し聴いていた音楽や誰かを大切に想う気持ち、好きな人に囲まれ、数え切れないほど飲んだビール、空が明るくなるまで途切れることなく話した他愛もない会話。

その当時、自分が大切に想っていたことは、悲しいことに年を重ねるごとにいつの間にか自分の中から消えていった。

人は忘れていく生き物だという。それでも経験したことは、理屈でなく体が覚えている。視覚や嗅覚、聴覚、五感が刺激され、鮮やかに蘇る瞬間がある。

どこか懐かしい風景に出会ったときや昔好きな人がつけていた香水の匂いに、思わず立ち止まり探してしまった瞬間。

大好きで繰り返し聴いていた音楽も最初の新鮮な驚きと感動はいつの間にか薄れていく。どんなに情熱的な恋愛ですらも。

だから人は旅に出るのかもしれない。見知らぬ土地にいき、まだ見ぬ景色をみるために、誰かに出会うために。それは新しい経験であり、その感動は、昔自分が感じた、忘れていた大切な記憶を思い出させてくれるものでもある。

新しい土地で、初めての経験をしながら、過去を回想し、いま、ここにいない誰かのことを想う、ちょっぴり感傷的な時間でもある。

一枚の写真が私に語りかけてくる。

夕立があがったアスファルトの独特の匂いや喫茶店で流れていた、その当時、流行っていた音楽、海に沈む夕日の美しい情景、旅の終わりに見上げた空が、いつの間にか高くなっていた。立ち止まる自分の肌をかすめた風が涼しく、夏の終わりと旅の終わりを知らせてくれた。そして、十数年たった今、あのとき旅先で読んだ同じ本を手に、飛行機が離陸しようとしている。あの頃とは違う観点で小説を読み進める自分と、あの頃と変わらず今から始まる旅に、高揚感でいっぱいの自分がいる。